98年冬から99年冬にかけての1年と8ヶ月、縁あって引きこもりの青年たちのフリースペースでスタッフをしていました。その時に当番が回ってきて書いた、会報誌の「編集部の本棚」への書籍紹介コラム。
-1999/5月----------
◇「ドリアン魂:ドリアン助川 著」
初めて彼を見た時、彼は、テレビの画面の向こうで、満身の力を込めて
唾を飛ばしながら何やら叫んでいた。次に彼を見た時(またもやテレビで
だが)彼はおいおい泣いていた。バンド仲間の不祥事に、人目をはばから
ず泣いていた。なぜか彼のそんな姿が強烈で、また、バンド名が「叫ぶ詩
人の会」という変な名前だったので、記憶の中にインプットされてしまっ
た。
3度目に彼を見たのは、昨年末。本屋の文庫本コーナーで、平積みになっ
ていた表紙の写真の彼と目が合ってしまった。いったい何者なのだ?興味
がわき、思わず買ってしまった。
彼が言葉に声にすることがらは、人間の矛盾・弱さ・醜さ・悲しみ・怒
り・本能…、そしてそれらと向き合いもがきながら生きているものたちへ
の暖かいまなざし。実に人間くさい、ドロ臭い世界だ。自分もどこかで感
じているくせに、時に無視してしまいがちな世界だ。
それをあえて心の「影」と呼ぶならば、彼は「影」の世界をむきだしに
する(=「叫ぶ!」)吟遊詩人だ。「光」しか見ようとしない・「光」だ
けに価値を置こうとする世界観に警鐘を鳴らしているようにも感じられる。
「光」は「影」の存在があってこそ、その輝きがわかる。「光」が眩しく
なるほど、「影」は黒く濃くなりそれに包まれたものが見えなくなる。そ
れらを見るには工夫やエネルギーが必要なので、ともすれば見ようとしな
くなる。しかし、「光」と「影」は、両方があって初めて「一つの世界」
なのだと私は思う。世界も、自分自身も。
彼の詩の中に自分の「影」を見た。言葉でうまく言えないが、根底が揺
さぶられるような、向き合うことを避けていたような深いところが動き出
すような、そんな感じを覚えた。あらためてその存在を確認した私は、こ
れから「それ」とどう向きあっていくのだろう…。
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